大判例

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東京高等裁判所 昭和47年(う)1211号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人竹下甫、同小山稔共同作成名義の控訴趣意書および控訴趣意補充書各記載のとおりであるから、これを引用し、これに対して、当裁判所は、つぎのとおり判断する。

一、控訴趣意第一、訴訟手続の法令違反の主張について

≪証拠省略≫に徴すると、なるほど所論の指摘するように、原審の立会検察官は、昭和四六年九月三日の第一回公判期日の二日位前すなわち同年九月一日ころの午後一時ころに、本件起訴状に対する釈明書を原裁判所(係の書記官)に提出したこと、この釈明書には、起訴状に記載された各公訴事実の犯行場所を特定する釈明として、被害者とされている長崎孝徳の検察官に対する供述調書末尾に添付された同人作成図面の写が添付されていたことがそれぞれ認められる。そしてこの図面の写には「長崎巡査被害場所」「嵯峨巡査被害場所」という記載とその場所が図示されているほか、「私達が始めにはいった規制場所」「逮捕地点」等の余事記載がなされているうえ、作成日付として昭和四六年六月九日、また作成者の長崎孝徳の署名捺印も写されている。それは認証のない単なる写であるので、証拠書類そのものとはいえないにしても、それと同視されるべき性質のものである。内容的にみても、裁判官に予断を抱かせる虞れのあるものと認められる。

ところで刑訴法二五六条六項において、起訴状には、裁判官に、事件につき予断を生ぜしめる虞れのある書類その他の物を添付し、又はその内容を引用してはならないと定めているのは、裁判官があらかじめ事件について先入的心証を抱くことなく第一回公判期日に臨み、その後の審理の進行に従い、証拠によって心証を形成し、もって公正な判決に到達することにある。従ってこの規定の趣旨からすれば、所論のとおり、公訴提起の後においても第一回公判期日前事件につき予断を生ぜしめる虞れのある書類その他の物を裁判官に提出することも許されないものと解されるから、原審立会検察官が第一回公判期日前に前示のような図面写の添付された釈明書を原審裁判所(係の書記官)に提出したことは違法といわざるをえない。

しかし≪証拠省略≫によると、右釈明書は係書記官によって原審訴訟記録の表紙裏面に挾み込まれたまま原審第一回公判期日を迎え、そして原審第一回公判期日においては、起訴状朗読後、弁護人からの求釈明につき立会検察官が「釈明は釈明書記載のとおり」と陳述したところ、その直後に、弁護人から右の図面写が釈明書に添付提出されたことを理由とする公訴棄却の申立がなされ、検察官は直ちに右図面写による釈明の撤回を申し入れ、原裁判所も、訴訟手続上はすでに陳述されたとはいえ事実上未だその釈明書を見ていなかったので撤回を許可し、この図面写を見ることなく、その後の訴訟手続を完結させたことが認められる。

結局は、原裁判所になんらの予断をも生ぜしめることのなかったことが明白であるから、原審立会検察官が前示の図面写を釈明書に添付し第一回公判前にこれを裁判所に提出したことは違法であるが、その程度は未だ本件の公訴を無効にするものとはいえない。そういうわけで、本件公訴を棄却しなかった原裁判所の訴訟手続に所論のような法令違反はなく、論旨は理由がない。

二、控訴趣意第二、事実誤認の主張について

1、被告人が原判示の日時、場所において長崎孝徳、嵯峨光男の両巡査に対し原判示のような暴行を加えたとする証拠は、右両巡査の原審公判廷における各供述を除いては他に的確なものはない。そこで右巡査らの供述が信用できるものであるか検討する。

2、原審証人嵯峨光男は大凡つぎのように供述している。

日中友好協会(正統)東京都本部主催の沖繩返還協定反対を目的とする集団示威運動に参加した者の集団(本件デモ集団と略称する)の先頭部分が、神谷町方面から虎の門交差点にはいる手前の横断歩道付近にさしかかったころ、本件デモ集団は急に蛇行進を始め同交差点内を蛇行進した。被告人は本件デモ集団が蛇行進を開始した時から、竹竿を横にして進む先頭の集団員らの先で後ろ向きになり、その竹竿を掴んでこれを左右に振って本件デモ集団の蛇行進を先導し、そのままの状態で同交差点の中央付近まで進出した。我々警視庁特科車両隊第二中隊第三小隊は集団の右側から規制にはいったのであるが、同地点で、自分の左手前にいた長崎孝徳巡査が本件デモ集団の向きを変えるため被告人の腰の辺りを押したところ、被告人は竹竿から手を放し長崎巡査の方に向きなおった。そして同巡査を蹴ったような感じがした。長崎巡査が引きさがり痛いと言ったので、やられたなと思った。自分がすぐ長崎巡査の前に出て被告人の右腕を押え正しい方向に本件デモ集団を向けようとしたが、被告人は押えた腕を払いのけ、その右肘で自分の胸部に肘鉄を一回加え、反転して竹竿から手を放して自分と対面するや自分の左足をズック靴のまま三回蹴りつけてきた。暴行を受けた地点は同交差点の新橋方面への出口辺りであった。そして被告人がまた後ろ向きになり竹竿を握って先導を始めたので、逮捕行為に出た。右襟の辺りを掴んだが竹竿を握っているため引き離すことが容易でなく、その時長崎、水野、木村の三巡査が来てくれたので、その協力を得て引き離し逮捕した。暴行されてから一〇メートル位先に進んだ辺りの中央信託銀行虎の門支店前辺りで逮捕した。なお司法警察員田村和治作成の写真撮影報告書添付の写真17の右下隅に後ろ姿の帽子で写っているのが自分で、これは被告人を逮捕しようとしている時と思われる。自分の帽子に接着して左斜めにある白いヘルメットの人物が被告人と思われる。この場面の被告人は、デモの進行方向に背を向けて両手で竹竿を持っており、被告人と対面して下を向いているヘルメットの人物の顔のすぐ下に手が写っているが、それが被告人の手と思われる。自分が被告人の左肩に手をかけて逮捕しようとしているところと思われる。

つぎに、原審証人長崎孝徳は大凡つぎのように供述している。

本件デモ集団は、その先頭部分が神谷町方面から虎の門交差点にはいる手前の横断歩道上辺りにきた時から蛇行進を開始した。竹竿を横にしている先頭集団員の先には、二名の指導者が後ろ向きになって竹竿を引っ張り先導していた。我々は本件デモ集団の右側から規制にはいり、同交差点の中央付近にいたった時、自分は竹竿の右端を持って歩道寄りに押したが、本件デモ集団の向きを変えることはできなかったので、後ろ向きになっていた指導者二人の尻を押したところ、そのうちの一人が何をするんだと言って、竹竿から手を放し自分の方に向き半身になって白運動靴で自分の左足下腿の内側を二~三回蹴りつけてきた。この男が被告人であることは間違いない。自分のすぐ右側にいた嵯峨巡査が規制にはいると、間もなく同巡査の痛いという声が聞えたので、同巡査もやられたことがわかった。同交差点を新橋方面に出て、中央信託銀行虎の門支店の少し手前で被告人の腕を掴んだが振り払われ、そこへ嵯峨巡査が来たので自分も逮捕行為に出て、同銀行前で逮捕した。

3、右巡査らの供述内容は、具体的であって一見いかにも真実性のあるもののように見受けられやすい。

しかしこれに対して、被告人も、原審および当審の公判廷において「私は本件デモ集団の副指揮者の立場にあったので、おおむね集団の先頭部分の右側一メートルないし五メートル離れた辺りから集団全体の状態を総指揮者の西田理氏と共に観察していた。集団先頭の竹竿には一度も手を触れたことはない。先頭で誘導する者については、私以外の者が三名最初から決められていた。彼等はその役目を立派に果してくれたので、私が竹竿を引っ張る必要など全くなかったのである。私は神谷町方面から虎の門交差点にはいる時、本件デモ集団の右側一~二メートル先に出ていた。そして本件デモ集団が同交差点にはいるとすぐ右側から機動隊が規制にはいり、同交差点中央方向に集団を押して行った際、私一人が矢庭に六~七名の機動隊員に取り囲まれて集団から離され、新橋方面への出口方向に連行された。その間に取り囲んだ機動隊員の一人が「検挙だ検挙だ」と数回叫んだが、白い指揮棒とトランジスターメガホンを持った隊長風の隊員が「まだ早いまだ早い」と指揮棒を振りながら制止していた。私は一度歩道に上って本件デモ集団の左側に出て集団に戻ろうと考え、桜田門寄りの東洋陶器前の地下鉄入口方向に行ったが、そこには工事用金網が張ってあったため歩道に上ることができず、本件デモ集団の左側に廻ることはできなかった。一方交差点中央から規制されてきた本件デモ集団も東洋陶器前の金網に押しつけられるように圧縮規制されてきたので、私は集団に戻ろうと努めたが、追ってきた機動隊員らに肩や腕を掴まれて引っ張られたため遂に集団に戻ることを諦めて、先行している宣伝車の方に逃げたが中央信託銀行虎の門支店のもう一つ先の安田信託銀行虎の門支店先の歩道上で追ってきた機動隊員らに不法逮捕された。」旨供述し、前記巡査らの供述と全く相反する供述をしている。

4、のみならず、被告人の供述のように、被告人が本件デモ集団の副指揮者としてその全体の状態を観察し掌理する立場にあったこと、一方、本件デモ集団の先頭で竹竿を握って先導する役の者としては、鈴木正実、阿部隆、大平征夫、松原某の四名が予め決められていたことは、≪証拠省略≫に照らして疑問の余地がない。そして≪証拠省略≫と司法警察員田村和治、同新田昭夫、司法巡査広中成人、同熊谷賢司各作成の写真撮影報告書(以下何某写真という)によれば、消防会館の会場を出発してから虎の門交差点にいたるまでの間においては、事実被告人は本件デモ集団から少し離れた位置より副指揮者らしく集団全体の状態を観察しながら行進していたのであって、集団先頭の竹竿を握って先導したのは、被告人ではなく、右の鈴木ら四名に限られていたことも認められるのである。

しかも、右田村、新田、広中および熊谷の各写真の中で、虎の門交差点内における本件デモ集団の先頭部分、すなわち竹竿を横にしている集団員の撮影されているものは、新田写真の23と広中写真の14のみであるが、前者の写真で集団員に向って竹竿を握り先導している者は、向って左端が鈴木正実、中央が大平征夫、右端が阿部隆であって、後者の写真で集団員に向って竹竿を握り先導している者は、向って左が大平征夫で右は阿部隆であることが、≪証拠省略≫によって明らかである。被告人が竹竿を握っている場面の写真はないばかりか、田村写真の14、15、新田写真の22ないし27、広中写真の14、以上九枚の虎の門交差点内の全写真中、いずれにも被告人の姿さえ写されているものはないのである。

ちなみに、ここで田村写真17についてみるに、それは客観的には誰れが何をしているものか直ちに理解できないものである。つぎに原審証人嵯峨光男の供述に基づき検討することにして、同写真の18に被告人が警察官から引っ張られている姿が写されているので、その被告人の写真と嵯峨証人の証言で被告人とされている右17に写されている人物との異同につき仔細に見分してみても、これが同一人であると断定するのはちゅうちょされる。

以上に、当審証人鈴木正実、同大平征夫らが、同交差点内においても「被告人が竹竿を握ったことはない」あるいは「被告人が竹竿を握ったのを見たことはない」旨供述していることも併せ考えると、後ろ向きになって竹竿を握り先導していた被告人に規制を加えたところ、かえって暴行を受けたという前掲記の嵯峨、長崎両巡査の供述には、加害者の見誤りの疑い(犯行のあったとされた地点から逮捕地点までには若干の距離がある)その他、原因については明らかでないが、その信用性につき疑いを抱かせるものがある。そのことは反面、被告人の前掲記の供述に、単なる弁解として排斥しがたいものがあるといわなければならない。

5、そういうわけで、原審証人嵯峨光男、同長崎孝徳の供述が十分信用できない以上、他に被告人の原判示の暴行事実を認めるに足りる証拠がないのであるから、これを認定した原判決は、事実を誤認したものであり、これが判決に影響をおよぼすことは明らかである。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書の規定に従い本件について更に判決をすることとする。

三、自判

本件公訴事実はつぎのとおりである。

被告人は、昭和四六年六月三日午後八時五六分ころ、東京都港区芝虎の門八番地付近路上において

第一  日中友好協会(正統)東京都本部主催の集団示威運動に伴う違法行為を制止、検挙するなどの任務に従事中の警視庁特科車両隊勤務巡査長崎孝徳に対し、その左足を蹴りつけて暴行を加え、もって右警察官の職務の執行を妨害し、その際前記暴行により同巡査に対し加療約五日間を要する左膝後面挫傷の傷害を負わせ

第二  前同様の任務に従事中の同特科車両隊勤務巡査嵯峨光男に対し、その胸部を右肘で突き、左下腿部を蹴りつけて暴行を加え、もって右警察官の職務の執行を妨害し、その際前記暴行により同巡査に対し加療約一週間を要する前胸部・左下腿挫傷の傷害を負わせたものである。

しかし先に説明したとおり、その犯罪の証明が十分でないから、刑訴法四〇四条、三三六条に則り無罪の言渡をする。

そこで主文のとおり判決する。

(裁判長判事 三井明 判事 石崎四郎 杉山忠雄)

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